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奈良時代
藤原不比等の時代
藤原不比等は藤原鎌足の次男。草壁皇子から、その子である軽皇子を託され、697年、軽皇子を文武天皇として即位させると、文武天皇の元、国政で影響力を持つようになる。701年、「大宝律令」の完成、710年、平城京遷都、718年 養老律令選定に着手するなど、中央集権的な国家の整備に貢献した。
長屋王(天武天皇の孫)の時代
720年、藤原不比等が病死すると、天武天皇の孫、長屋王が政権を握る。この頃、農民の浮浪や逃亡といった社会不安が顕在化していたため、長屋王は722年の百万町歩開墾計画や翌723年の三世一身法など、土地の制度改革を進めた。一方政権では、藤原不比等の四子との対立が深まっていた。729年、藤原四子に異母妹で聖武天皇の妃であった光明子の立后をめぐり、長屋王が謀反の疑いをかけられ、自殺に追い込まれている。これを長屋王の変 という。
藤原四家(南 北 式 京)の時代
長屋王の変の後、光明子は王族以外で初めて皇后となった。この時代、藤原不比等の四子(武智麻呂=南家 房前=北家 宇合=式家 麻呂=京家)が9名の公卿の内、4人をしめ実権を握った。しかしながら、734年に流行した天然痘で亡くなり、藤原四家の時代が終焉した。
橘諸兄(光明皇后の兄)の時代
藤原四子の死後、皇族出身の橘諸兄が大納言に任命され、聖武天皇を補佐した。橘諸兄は遣唐使から帰国していた玄昉、吉備真備を重用し、唐の制度を国政に取り入れた。740年には、藤原式家、宇合の子藤原広嗣が大宰府で挙兵したが、大野東人らに鎮圧された(藤原広嗣の乱)。疫病の蔓延や藤原広嗣の乱に心を痛めた聖武天皇は、仏教に傾倒し、仏教の力によって国の安定を図る鎮護国家政策を打ち立てた。743年には、3代限りで政府に返却する必要のある三世一身法を改め、墾田永年私財法を発令した。
藤原仲麻呂の時代
聖武天皇から譲位を受けた孝謙天皇の時代になると、藤原四家、南家の祖である藤原武智麻呂の子仲麻呂の勢力が大納言に昇進するなど力を強め、757年に橘奈良麻呂がクーデター(橘奈良麻呂の乱)に失敗するとさらに勢力が増した。同じく757年には、718年に祖父藤原不比等らが制定した養老律令の施行する。
道鏡の時代
孝謙天皇から譲位を受け即位した淳仁天皇の時代でも、光明皇太后の後ろ盾の元、藤原仲麻呂が実験を握っていたが、760年に光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と藤原仲麻呂の間に不和が表面化する。特に孝謙上皇の病を治し、寵愛を受けた僧、道鏡の処遇を巡り、対立が深まり、764年に軍事指揮権の象徴である鈴印をめぐり武力衝突が起こり、藤原仲麻呂は朝敵として処罰される(恵美押勝の乱)。この恵美押勝の乱の後、孝謙上皇は称徳天皇として重祚する。道鏡は称徳天皇の元、太政大臣禅師となり、さらに宇佐八幡宮より皇位に着くべしとの神託を受けたとし、これを和気清麻呂に紛糾された宇佐八幡宮神託事件が発生する。称徳天皇の死後、道鏡は下野国薬師寺別当に左遷させられる。
藤原百川(式家)の時代
称徳天皇の死後、770年、藤原式家、藤原百川の推す白壁王が光仁天皇として即位する。
奈良時代の年表
710年 | 平城京へ遷都 |
711年 | 蓄銭叙位令 |
718年 | 養老律令選定 |
722年 | 百万町歩開墾計画 |
723年 | 三世一身法 |
729年 | 長屋王の変 |
740年 | 藤原広嗣の乱 |
743年 | 墾田永年私財法 |
757年 | 養老律令の施行 橘奈良麻呂の変 |
764年 | 恵美押勝の乱 |
奈良時代について学ぶことのできる施設
■平城宮跡資料館ホームページ(奈良県奈良市)
https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/index.html
■正倉院(奈良県奈良市)
http://shosoin.kunaicho.go.jp/
■唐招提寺(奈良県奈良市)
https://toshodaiji.jp/
■華厳宗大本山 東大寺(奈良県奈良市)
http://www.todaiji.or.jp/index.html
■法相宗大本山 興福寺(奈良県奈良市)
http://www.kohfukuji.com/
■奈良薬師寺(奈良県奈良市)
http://www.nara-yakushiji.com/
■奈良県立万葉文化館(奈良県高市郡明日香村)
http://www.manyo.jp/