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平安時代

桓武天皇の時代

光仁天皇から譲位を受け、その子桓武天皇が即位すると、784年、桓武天皇は長岡京へ遷都を行う。しかし造長岡宮使の藤原種継が暗殺されたことなどもあり、794年、平安京へ遷都した。琵琶湖からの水路交通や僧侶の影響の強い平城京から離れていることが平安京を選んだ理由といわれている。
 桓武天皇は、律令制の再建に尽力した。それまでの徴兵して整えていた軍団を廃止し、郡司の子弟に各国の役所(国衙)を守らせる健児制を採用し、人民の負担を軽減すると共に兵力を整え、国司の交代に際し勘解由使(かげゆし)をおき、地方官を厳しく監査した。一方、奈良時代末から激しくなっていた東北地方の蝦夷の反乱に対して、征夷大将軍、坂上田村麻呂を派遣し、成果を収めた。

 

長屋王(天武天皇の孫)の時代

720年、藤原不比等が病死すると、天武天皇の孫、長屋王が政権を握る。この頃、農民の浮浪や逃亡といった社会不安が顕在化していたため、長屋王は722年の百万町歩開墾計画や翌723年の三世一身法など、土地の制度改革を進めた。一方政権では、藤原不比等の四子との対立が深まっていた。729年、藤原四子に異母妹で聖武天皇の妃であった光明子の立后をめぐり、長屋王が謀反の疑いをかけられ、自殺に追い込まれている。これを長屋王の変 という。

 

平城・嵯峨天皇の時代

桓武天皇の後、平城・嵯峨天皇が律令制度の再建を引き継いだ。809年、平城天皇は病から異母弟の嵯峨天皇に譲位を行い、自身は平城京へ移ったが、藤原薬子、仲成兄妹により平城上皇の復位を目的とした平城京遷都を図り、翌810年、失敗するという薬子の乱が発生する。この事件をきっかけに、令外官として政務の機密事項を守る蔵人頭が設置され、藤原冬嗣が任命された。また、都の治安を守るため検非違使(けびいし)も設置された。さらに嵯峨天皇の時代には、律令規定の変更をまとめた格(きゃく)とその細則をまとめた式(しき)を整理し、弘仁格式を作った。

 

藤原北家の台頭

薬子の乱では、藤原式家の藤原薬子、仲成兄妹が処罰されたが、その後、藤原北家は天皇の外戚関係を利用すると共に、他氏排斥運動を実行し、その地位を固めた。842年、藤原冬嗣の子良房は伴健岑・橘逸勢を失脚させ、良房の妹順子の子を皇太子に据える(承和の変)。さらに866年には大納言伴善男の失脚に成功し、良房は人臣で初めて摂政の地位につく(応天門の変)。888年には、良房の子基経が阿衡の紛議を引き起こし、自ら宇多天皇の関白となる。基経の死後、宇多天皇は関白を置かず、菅原道真を蔵人頭に据えるが、次の醍醐天皇の時代には、菅原道真は藤原時平によって大宰権帥に左遷させられてしまう(昌泰の変)。969年の安和の変では、藤原実頼が源高明を左遷させ、藤原北家による他氏排斥は完成する。

 

摂関政治

安和の変で源高明が左遷させられると、摂関・関白は常に置かれるようになる。他氏排斥を終えた藤原北家では、今度は氏の長をめぐる抗争が勃発する。この抗争に勝利したは、後一条・後朱雀・後冷泉天皇の摂政太政大臣としての地位を築き、子の頼通の時代と合わせ、摂関家が最も安定した時期となった。

 

武士団の成長

平安京では貴族文化が繁栄していたが、この文化を支えていたのは地方の負担によるものであった。国司の中には、実際に地方の国衙に出向かず、俸禄だけ手にする遙任が横行した。このような支配に対し、地方の豪族は中央貴族や寺社と結びつき、荘園を開いて租税を納めなかった。このように律令制度の根幹が崩れた状況の下、地方豪族の中には武力によって実効支配を目論む者が登場した。東国では平将門が国府に対し反乱を起こし(平将門の乱)、同じ頃、西国では藤原純友が瀬戸内海の海賊を率い大宰府まで攻め落とす事件が発生した(藤原純友の乱)。
 平将門の乱、藤原純友の乱はいずれも中央政府によって平定されたが、中央貴族にこれを抑える力は無く、結局武士の力に頼らざるを得ないことが露呈された。1028年、平常正の乱、1051年、前九年の役、1083年、後三年の役と各地で騒乱が相次いだ。

 

院政と平氏

中央では、藤原頼通の娘に皇子が生まれなかったため、1068年、外戚のない後三条天皇が即位した。後三条天皇は大江匡房など優れた人材を登用し、延久の荘園整理令、記録荘園券契所の設置、宣旨枡の統一など不法な荘園の整理に努めた。
 次の白河天皇も後三条天皇の政策を引き継ぎ親政を目指し、荘園整理に注力した。実子である善仁親王が8歳のとき、譲位して堀河天皇として即位させると同時に、自らは上皇として政務につき、院政を始めた。この院政は続く鳥羽、後白河上皇へと続いていく。この院政の特徴は、天皇による従来の手続きを経ずに、上皇の発する院宣などが専横的に実行力を持つことというものであり、上皇の保護を期待した貴族から多くの荘園が集まった。
 1156年に鳥羽上皇が亡くなると、寄進で集まった荘園の権益をめぐり、皇室や摂関家内部の対立が激化し、保元の乱が発生した。さらに1159年には後白河上皇の院近臣の対立から武家の棟梁の争いに発展した平治の乱が起こった。この争いで勝利した平清盛は、後白河院政の下、強力な平氏政権を打ち立てた。

 

平安時代の年表

784年 長岡京遷都
794年 平安京遷都
805年 徳政相論(菅原道真 対 藤原緒嗣)
810年 薬子の乱(平城上皇《式家仲成、薬子》 対 嵯峨天皇)
842年 承和の変(伴健岑・橘逸勢) → 文徳天皇のもと、藤原良房が太政大臣へ
866年 応天門の変(伴善男 紀豊城排斥)
888年 阿衡の紛議(藤原基経が関白へ)
939年 平将門の乱(※)
藤原純友の乱
958年 乾元大宝(皇朝十二銭)
969年 安和の変 藤原実頼 源高明を左遷
1028年 平忠常の乱(房総) ← 源頼信(満仲の子)が鎮圧
1051年 前九年の役(安倍頼時の乱) ← 源頼義(頼信の子)が鎮圧
1069年 延久の荘園整理令
1072年 白河天皇即位
1083年 後三年の役← 源義家(頼義の子)が鎮圧 藤原清衡の勝利(奥州藤原家の祖)
1086年 堀河天皇即位(白河上皇による院政 鳥羽 崇徳まで)
1107年 源義親の反乱 ← 平正盛が鎮圧
1156年 保元の乱(崇徳上皇 対 後白河天皇) 後白河院政のスタート
1159年 平治の乱(平清盛 対 源義朝)
1167年 平清盛 太政大臣へ
1177年 鹿ケ谷の陰謀 1179年 後白河法皇幽閉
1180年 安徳天皇即位(清盛の孫)

平安時代について学ぶことのできる施設

■元興寺・元興寺文化財研究所(奈良県奈良市)
http://www.gangoji.or.jp/

■女人高野 室生寺(奈良県宇陀市)
http://www.murouji.or.jp/index.html

■世界遺産 平等院(京都府宇治市)
http://www.byodoin.or.jp/

■宮島観光公式サイト(広島県廿日市市)
http://www.miyajima-wch.jp/

■関山 中尊寺(岩手県平泉町)
http://www.chusonji.or.jp/


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