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鎌倉時代
鎌倉幕府の成立
1180年、平氏の専制に不満を持つ後白河皇子の皇子以仁王(もちひとおう)は、畿内に基盤を持つ武士源頼政と平氏打倒の兵を挙げる(以仁王の令旨)。この挙兵は中途で露見し、失敗に終わったが、伊豆では源頼朝、信濃では木曽義仲が兵を挙げ、源平の争乱の時代となった。その後、源頼朝は中央政府に対する不満の大きかった東国をまとめ、鎌倉を拠点として幕府の基礎を作った。
1181年、平清盛が亡くなると、平氏勢力は衰え、1185年、壇ノ浦の戦いに敗れ、平氏は滅亡する。さらに1189年、頼朝は不仲になっていた義経を匿った奥州藤原氏を攻め滅ぼし、全国の軍事的支配権を手にする。1192年、後白河法皇が亡くなると、頼朝は征夷大将軍に任命され、名実共に鎌倉幕府が成立する。
長屋王(天武天皇の孫)の時代
720年、藤原不比等が病死すると、天武天皇の孫、長屋王が政権を握る。この頃、農民の浮浪や逃亡といった社会不安が顕在化していたため、長屋王は722年の百万町歩開墾計画や翌723年の三世一身法など、土地の制度改革を進めた。一方政権では、藤原不比等の四子との対立が深まっていた。729年、藤原四子に異母妹で聖武天皇の妃であった光明子の立后をめぐり、長屋王が謀反の疑いをかけられ、自殺に追い込まれている。これを長屋王の変 という。
鎌倉幕府の政治
鎌倉幕府は主人と家人のよる主従関係を根幹とする政治を行う。将軍が御家人を守護職や地頭職に任命し、御家人の土地の権利を承認・保障する「御恩」に対し、御家人は有事の際の軍役や京都大番役、鎌倉番役といった都や幕府を警護する役目を役目を果たす「奉公」によって御恩に報いるギブアンドテイクの関係を利用した制度である。
これらの制度を支えるために、鎌倉幕府は様々な機関を設置する。1180年には御家人の統制や罪人の収監を受け持つ侍所、1184年には各地の荘園の権益などをめぐって起こった争いを訴訟によって取りまとめる問注所、そして1191年には公文書の作成など一般事務業務を受け持つ公文所を設置した。
執権政治
1199年、源頼朝が亡くなると、御家人は将軍の持っていた多くの権限を制限し、有力御家人による合議制によって幕府を運営するようになった。特に源頼朝の妻政子の父北条時政は有力御家人の中心として力をつけ、頼朝を継いだ2代将軍頼家を廃し、3代実朝を立て、自らは政所の長官職である執権となって実権を握った。
1219年、鶴岡八幡宮で3代将軍実朝が甥の公暁に暗殺されるという事件が起こる。この事件を受け、幕府の足並みがそろっていないと考えた後鳥羽上皇は1221年、幕府に対し挙兵した。しかしながら東国御家人の結束は固く、上皇方は破れ、後鳥羽、御門、順徳上皇は流罪となる(承久の乱)。この承久の乱の後、幕府は朝廷の監視のため京都に六波羅探題を設置し、上皇方の所領3000箇所を没収し、幕府の全国支配が完成した。
蒙古襲来と幕府
13世紀初頭、大陸ではチンギスハンの率いる遊牧民族が発展し、朝鮮半島高麗を服従させていた。1274年、チンギスハンの孫フビライハンは国号を元と改め日本対しても朝貢を迫ってきた。鎌倉幕府がこの要求を拒否したため、ついに元軍が博多湾に上陸した。一騎打ちで戦いを挑む幕府軍に対し、火薬を用い、集団戦法で襲い掛かる元軍の勢いは強く、幕府軍は大宰府まで退いたが、暴風雨の影響により、元軍は撤退した(文永の役)。
さらに元軍は1281年にも来襲したが、やはり暴風雨があったことと、元に動員されていた高麗の抵抗もあり、再び退いた(弘安の役)。
この2度の蒙古襲来に対し、御家人は奉公という形で幕府の要請に応えていたが、幕府が元から得たものは無く、御家人に対して十分な恩賞を与えることはできなかったため、御家人の生活は窮乏していった。
鎌倉幕府の滅亡
2度の蒙古襲来で多くの御家人の生活が困窮する中、13世紀の中ごろから北条氏の本家の権限が強大化し、特に北条氏の家督を継ぐ得宗家による専制政治へ移行していた。さらに得宗家の家人である御内人の勢力が強まり、御家人と対立するようになった。
また、畿内周辺では朝廷や寺院、御内人と結びつき、荘園の年貢を請け負ったり高利貸しで財を蓄える悪党と呼ばれる新興武士が力をつけた。
一方、朝廷では皇位継承と荘園の支配権をめぐる対立が深まり、後深草天皇の系統である持明院統と亀山天皇の系統である大覚寺統が争っていて、14世紀になると幕府がこれに介入し、両統が交互に即位する両統迭立が提案された。
このような中、大覚寺統から即位した後醍醐天皇が1324年には正中の変、1331年には元弘の変と呼ばれる2度の討幕計画を企て失敗させていた。しかし、この事件をきっかけとして畿内の寺社勢力や悪党勢力、さらに北条氏に反発する御家人が次々と立ち上がった。後醍醐天皇の皇子護良親王や楠木正成も挙兵し、これを鎮圧すべく派遣された足利高氏も幕府を裏切り、逆に六波羅探題を攻め落としてしまった。また関東では新田義貞が鎌倉を攻め、1333年鎌倉幕府は滅亡した。
鎌倉時代の年表
1180年 |
以仁王の令旨 「平氏打倒」 平清盛 福原京への遷都 のち平安京へ 源頼朝挙兵 源義仲(木曽義仲)挙兵 |
1181年 | 平重衡 南都焼き討ち |
1184年 | 源頼朝、範頼・義経に義仲を討たせる |
1185年 | 壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす |
1189年 | 奥州藤原氏を滅ぼす |
1192年 | 源頼朝 征夷大将軍へ |
1199年 | 頼朝没後、源頼家が跡を継ぐが、有力御家人の合議制へ |
1200年 | 比企能員が滅ぼされた |
1203年 | 北条時政が比企能員を滅ぼす 頼家を幽閉 源実朝が将軍 ← 実権は執権北条時政 |
1219年 | 公暁が実朝を暗殺 摂関家から藤原頼経を迎える(摂家将軍) |
1221年 | 六波羅探題の設置 承久の乱 後鳥羽上皇 北条義時追討令 上皇方敗れる |
1225年 | 連署 評定衆の設置 |
1232年 | 貞永式目(御成敗式目) |
1247年 | 北条時頼が三浦泰村をが滅ぼす |
1249年 | 引付衆を設置 |
1268年 | フビライハンの使者 北条時宗拒絶 |
1274年 | 文永の役 竹崎季長が『蒙古襲来絵巻』を描かせる。 |
1281年 | 弘安の役 |
1285年 | 霜月騒動 (御家人 対 御内人) |
1297年 | 永仁の徳政令 |
鎌倉時代について学ぶことのできる施設
■鎌倉大仏殿高徳院
http://www.kotoku-in.jp/
■鶴岡八幡宮
http://www.hachimangu.or.jp/
■神奈川県立金沢文庫トップページ
http://www.planet.pref.kanagawa.jp/city/kanazawa.htm
■華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ 南大門
http://www.todaiji.or.jp/contents/guidance/guidance8.html
■臨済宗大本山 円覚寺
http://www.engakuji.or.jp/
■檜尾山観心寺
http://www.kanshinji.com/index.html