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室町時代

建武の新政

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は摂政・関白を廃し、天皇親政の理想を掲げて新しい政治を目指した。1334年に年号を建武と改めたため、この政治は建武の新政と呼ばれている。
 後醍醐天皇は中央に記録所、武者所、雑訴決断所、恩賞方、地方には鎌倉将軍府、陸奥将軍府、征西府、国司を設置し、武者所の長官には新田義貞を頭人として任用した。
 後醍醐天皇の建武の親政は平安時代の延喜・天暦の治を理想としていたが、公家と武家双方の政治を折衷したものであったため、公家も武家ともに不満が募るようになり、社会に混乱を生じさせてしまった。

 

足利尊氏と南北朝時代

このような混乱のなか、1335年に最後の執権、北条高時の子、時行による中先代の乱が発生した。これを収めるため鎌倉に向かった足利尊氏は、これを機に新政府に背き反旗を翻した。後醍醐天皇の尊氏討伐の命を受け、尊氏は一度九州まで落ち延びるが、後醍醐天皇に対立する持明院統と結び、光明天皇を擁立して武家社会樹立を目指した。これで建武の親政は終了し、吉野に逃れ三種の神器を所持て正統を主張する大覚寺統の南朝と足利氏に支えられ京都の持明院統の北朝が対立する南北朝時代が始まった。

 

室町幕府の成立

大覚寺統の後醍醐天皇から京都を奪った足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立した。尊氏は弟の直義と政務を分担して武家政権の基本姿勢を示す建武式目を制定し、1338年には征夷大将軍に任命される。一方、大覚寺統の南朝側では後醍醐天皇が亡くなり、建武の新政に協力してきた武士があいついで倒れるなど衰退した。
 ここに南北朝統一の機会が訪れたかに見えたが、北朝側でも観応の擾乱という内紛が始まってしまう。当初は「武の尊氏、政の直義」と謳われた兄弟であったが、直義と尊氏の補佐役高師直が対立し、直義が高師直を殺害したため、尊氏と直義の間の武力衝突にまで発展してしまった。

 

足利義満の時代

室町幕府の名称は14世紀末に足利尊氏の孫、3代義満が京都の室町に「花の御所」と呼ばれる邸宅を造り、ここを中心に政を行ったことに由来する。南北朝の動乱もこの頃に収まり、1392年に両統の合体が実現され、幕府は守護大名をおさえて全国支配を完成させた。
 幕府の統治機構としては、中央に将軍を補佐する管領を足利氏一門の細川、斯波、畠山氏(三管領)、京都の治安を守る侍所を山名、赤松、一色、京極氏(四職)が担当した。一方、地方では関東に鎌倉府、九州に九州探題、東北に奥州探題と羽州探題がおかれた。
 幕府の財源は直轄領の御料所からの収入と守護・地頭への課税が基本となり、その他では田畑に課せられる段銭、家に課せられる棟別銭、通行税としての関銭などがあった。
 外交面では明との国交を樹立させ、日本からは銅、硫黄、刀剣などを輸出し、明からは銅銭、生糸、絹織物を輸入する勘合貿易が始まった。

 

蒙古襲来と幕府

13世紀初頭、大陸ではチンギスハンの率いる遊牧民族が発展し、朝鮮半島高麗を服従させていた。1274年、チンギスハンの孫フビライハンは国号を元と改め日本対しても朝貢を迫ってきた。鎌倉幕府がこの要求を拒否したため、ついに元軍が博多湾に上陸した。一騎打ちで戦いを挑む幕府軍に対し、火薬を用い、集団戦法で襲い掛かる元軍の勢いは強く、幕府軍は大宰府まで退いたが、暴風雨の影響により、元軍は撤退した(文永の役)。
 さらに元軍は1281年にも来襲したが、やはり暴風雨があったことと、元に動員されていた高麗の抵抗もあり、再び退いた(弘安の役)。
 この2度の蒙古襲来に対し、御家人は奉公という形で幕府の要請に応えていたが、幕府が元から得たものは無く、御家人に対して十分な恩賞を与えることはできなかったため、御家人の生活は窮乏していった。

 

応仁の乱へ

義満の跡を継いだ義持の時代になると義満に抑えられていた守護大名の勢力が大きくなった。当時出家していた足利義教はくじ引きで6代将軍に選ばると、義教は権力強化を図った。鎌倉公方は元々将軍家と不仲であったが、足利持氏の代のときに鎌倉公方を補佐する関東管領上杉憲実が鎌倉公方と対立した。そこで足利義教は上杉憲実を引き入れ、1439年に持氏を滅ぼした。これを永享の乱という。さらに義教は持氏の遺児を匿ったとして関東の結城氏を滅ぼすなど守護大名を処分した。このような恐怖政治に不安を憶えた播磨の守護大名赤松満祐は義教を暗殺してしまう(嘉吉の乱)。その後、赤松満祐は侍所所司の山内持豊に追討されるが、この頃から将軍権威が失墜してしまう。
 足利義教の死後、管領家の畠山家や同じく斯波家で家督相続問題が起こり、将軍家でも8代足利義政の跡取りをめぐって対立が起きる。さらに侍所所司の山内持豊と管領細川勝元も対立していた。将軍家は対立する二人をそれぞれ頼り、ついに1467年、細川方を中心とした東軍と山名方を中心とした西軍に分かれて応仁の乱が勃発する。この応仁の乱は京都を主戦場に11年も続き、幕府の支配権は山城一ヶ国にしか及ばなくなった。戦国時代の幕開けである。

 

戦国時代の始まり

応仁の乱以降、幕府の弱体化に伴い各地の守護大名が守護代や国人に領地を奪われるという下剋上の風潮が全国を覆った。室町幕府では管領家の細川氏が京都を治めていたが、家臣の三好長慶に実権を奪われ、さらに三好長慶も松永久秀に滅ばされてしまう。また関東公方は持氏の子足利成氏と8代将軍義政の弟足利政知に分裂していたが、北条早雲が小田原を拠点に勢力を伸ばし、北条氏康の時代に関東の大半を支配するに至る。また西国では周防の守護大名大内義隆が陶晴賢に滅ぼされる。
 いずれも地侍や国人と主従関係を結んだ戦国大名が幕府権力から独立して領国を支配し、領国内のみで通用する分国法を制定した。

 

室町時代の年表

1333年 鎌倉幕府滅亡
1335年 中先代の乱
1335年 足利尊氏、幕府に謀反
1336年 建武式目制定
1378年 足利義満、花の御所造営
1392年 南北朝合一
1394年 足利義満、太政大臣
1399年 応永の乱
1467年 応仁の乱始まる
1477年 応仁の乱収まる
1543年 鉄砲伝来
1549年 キリスト教伝来(フランシスコ・ザビエル)

室町時代について学ぶことのできる施設

■宮内庁参観案内:施設情報:京都御所
http://sankan.kunaicho.go.jp/guide/kyoto.html
※花の御所は現在の京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かい位置した。

■大聖寺(上京区の史蹟百選 京都市上京区HP)
http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012472.html

■南朝 吉野朝廷(吉野の歴史と文化 奈良県吉野町HP)
http://www.town.yoshino.nara.jp/kanko-event/meisho-kanko/rekishi-bunka/

■榮山寺(なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>)
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/01shaji/02tera/04south_area/eisanji/
※南北朝時代に南朝の行在所が置かれた。


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