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江戸時代 中期
元禄時代(綱吉)
家綱の後に将軍に就任したのは家綱の弟、綱吉だ。綱吉は武家諸法度天和令で、それまでの「文武弓馬の道」と唱えられていたものを「文武忠孝に励む」という形に方針転換し、文治政治を明文化した。
また綱吉は生類憐みの令という動物愛護の法令を発令したことで有名だ。この生類憐みの令は、これまで悪法の代表であると考えられてきたが、実際は動物愛護のみならず、捨て子や病人など社会的弱者も含め幕府の庇護の下に置こうとした法令で、武断政治の時代に殺伐とした世の中を払拭する政策の一環であったと近年見直しがなされている。
4代家綱のとき、江戸で明暦の大火が発生していたため、5代綱吉の時代にはその復興に莫大な費用がかかったため、幕府の財政事情は逼迫していた。この危機を乗り越えるため勘定吟味役の荻原重秀は貨幣に含まれる金の含有量を落とした貨幣、元禄金銀の改鋳を行った。この改鋳で一時的に幕府の財政は好転するが、その後すぐに激しい物価上昇に見舞われ庶民の間に不満が募ってしまった。
正徳の治(家宣・家継)
綱吉には跡継ぎがいなかったため、甥の家宣が6代将軍に選ばれ、その後は家宣の子家継ぐが7代将軍に就任した。この二人の時代には朱子学者の待講、新井白石が幕政を補佐した。白石の政策では、紫衣事件以来緊張状態となっていた朝廷との関係を円滑にするため閑院宮家を創設し天皇家の分家に配慮する姿勢を示した。また物価上昇を招いた悪貨、元禄金銀を改め、家康時代の慶長金銀と同じ含有量まで貨幣の質を戻した正徳金銀の鋳造を行った。さらに朝鮮通信使の待遇を簡素化し経費の削減に努めた。
享保の改革(吉宗)
7代将軍家継が幼くして亡くなり、徳川御三家紀伊藩主徳川吉宗が将軍に就任した。吉宗は家康時代の政治を理想とした享保の改革を進めていく。
まず人材登用について足高の制と呼ばれる改革を実行する。従来の幕府では役職ごとに「禄高」と呼ばれる給料が決められていて、この禄高以上の役職に就くことができなかった。この登用方法では有能な人材があったとしても、その者の地位が低かった場合、高い役職に就くことができなかった。そこで吉宗は地位の低い人材が高い役職に就いた場合、在任中に限り禄高を補い、退任後は元の禄高に戻す仕組みを採用した。旗本出身で江戸町奉行に登用された大岡忠相や名主出身で代官に登用された田中丘隅がこれにあたる。
また諸大名に対し参勤交代の江戸滞在期間を短縮する代わり米を上納させる制度を設け、幕府財政の建て直しにあたった。さらに新田開発を奨励したり年貢徴収方法を定免法に切り替え幕府財政の安定化を図った。
田沼政治(家治)
10代家治の時代には家治の側用人から老中に出世した田沼意次が幕政を主導した。吉宗時代で年貢による増収が頭打ちとなっていたことから、意次は商人の持つ経済力に目をつけ、商業重視の政策で財政の建て直しを進めていった。
意次は長崎貿易を推し進め、銅ののか俵物と呼ばれる海産物の輸出を行った。また貨幣流通を促すためそれまで重さを量って用いていた銀貨を数えて使える貨幣を鋳造し両替の効率化を図った。また株仲間を奨励し営業を許可することで増税を目論んだ。
このように経済重視の田沼政治は一定の効果があったものの浅間山の噴火や天明の飢饉が重なったため各地で百姓一揆が発生し、さらに意次の賄賂政治に批判が集まったため、家治が亡くなった後、失脚してしまった。
寛政の改革(家斉)
失脚した田沼意次に代わり11代将軍家斉時代に幕政を補佐したのが吉宗の孫で白河藩主、松平定信だった。定信は田沼時代の政策を一掃し意次が始めた営利事業などを廃止し、困窮していた旗本や御家人の救済のため借金の帳消しを認める棄捐令を出した。
また農村の復興を第一と考え、旧里帰農令を出して都市に出稼ぎに来ていた農民を農地に戻るよう促した。この時期の江戸には各地から浮浪者や無宿者が集まり社会的な問題となっていたため、人足寄場という収容施設を作り、職業訓練も実施した。さらに天命の飢饉の経験から社倉や義倉と呼ばれる穀物を貯蓄する倉庫を作り災害に備えた。
大御所時代と大塩平八郎の乱
幕政改革に取り組んだ松平定信だが、尊号一件という幕府ー朝廷間の尊号贈与に関する紛議事件がきっかけで在職6年で免職される。その後、文化文政期に幕府の政治を担ったのが11代将軍家斉であった。家斉は天保年間に将軍職を子の家慶に譲ったが、50年間にわたり大御所として実権を握った。
この時代、将軍の側近に将軍を諌めることできる優れた人材がなく、田沼時代の乱れた部分だけが残ってしまった。一方で天保年間となると天明の飢饉にひってきするほどの凶作が続き、農村でも多くの餓死者がでたため、一揆や打ちこわしが多発した。畿内でも米が不足したが、幕府は救済を怠ったばかりか米を江戸に輸送させようとした。この機会にさらに利を追求する豪商もあり、憤りを感じた元与力で、大坂町奉行だった大塩平八郎は、建議書を幕閣に送り、豪商を襲う計画を立てた。この計画は内通者の申し立てにより露見し、半日で鎮圧されたが、著名な陽明学者でもあった大塩の企ては大きな反響をよんだ。
天保の改革
幕府は大塩平八郎の乱によって大きな影響を受けたが、家斉は特別な手立ても施さないまま1841年に逝去する。このあとを受けたのが老中水野忠邦である。
忠邦は天保の改革と呼ばれる幕府強化策につとめた。忠邦の改革は人々に厳しい倹約令を課し、娯楽施設や風俗を取り締まり、人々の不満を募らせた。
また物価上昇を株仲間による価格統制が原因として株仲間の解散し、自由競争に委ねたが、商品流通が却って悪化してしまう結果となった。
さらに上地令といって、江戸や大阪周辺の大名、旗本領を幕府領として幕府権力の強化を図ったが激しい反対に合い失脚する。
江戸時代 中期の年表
1702年 | 赤穂浪士、吉良義央を討つ |
1709年 | 新井白石を登用(正徳の治) |
1716年 | 徳川吉宗、享保の改革 |
1723年 | 足高の制 |
1732年 | 享保の飢饉 |
1767年 | 田沼意次、側用人に |
1782年 | 天明の飢饉 |
1787年 | 松平定信、老中に(寛政の改革) |
1789年 | 棄捐令 |
1790年 | 人足寄場設置 |
1833年 | 天保の飢饉 |
1837年 | 大塩平八郎の乱 |
1841年 | 天保の改革(〜43年) |
1841年 | 株仲間の解散 |
1842年 | 天保の薪水給与令 |
江戸時代 前期について学ぶことのできる施設
■特別城趾江戸城(環境省HP)
https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_01.html
■和歌山城(紀州徳川家 居城)
http://wakayamajo.jp/index.html
■小峰城跡(白河市HP)
http://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page001390.html